その1の続き
次の日、営業の人が迎えに来てくれた。
昨日は全然仕事してなかったはずなのに、ちゃんと普通にしてるのが不思議だった。
朝から会社でミーティングだ。
どういうクレームで、どんなやりとりがあったかを聞いた。
もう一度チャンスをくれるということで、今度は俺らの立会いの元、その薬液を使っていつもの作業を見せてくれるという。
現地の会社の人のに連れられてその会社のクリーンルームへと移動した。
半導体関係の仕事は秘密だらけだ。
他社のクリーンルーム(こんな感じ)。
でも、俺たちが動いていい場所は、先導の人が通った道だけ。
そして他の場所をなるべく見てはならない。
その人の実験場所は1畳くらいの機械の前で、俺と上司はその後ろでその人の作業を見守った。
最初は必死で見ていたのだが、他人の作業ほどつまらないものはなく、次第にイライラしてくる。
とにかく俺らに与えられている稼働スペースが小さすぎるのだ。
なんでこいつ(インド人の女博士)はこんなに鈍臭いの?
テキパキ実験しろよ。
そのうち動きたいという欲望が高くなる。
とにかく実験している人の後ろから動けないし、他の場所を視界に入れないようにしないといけないのだ。
(スパイ疑惑を回避するため)
動きたい動きたい動きたい。
歩きたい歩きたい歩きたい。
ふと上司に目をやるとほとんど動かずに立っている。
俺はこいつの実験を見るのがこんなにも苦痛なのに、そしてこいつがどうして俺の薬液でうまくいってないのかのミスを探さないといけないのに、それが苦痛で苦痛でたまらないなか、上司は一心不乱にその実験を見ている。
と思ったら...目が....目がいつもと違う.....
寝てはいないのだが、目が死んでいるのだ。
「上司、動かなくても平気なんですか?」
「眠ってはいけないから、仮死状態になるんだよ。こういうときはね。まず目をこうして、そして体の力をこう抜いて..」
もはや実験を監視するどころか、仮死の人間がマネキンのごとく後ろに立っているだけなのだ。
思考回路を切ったので、なんの監視もできない。
ただ立っているだけ。
そう、上司のアドバイスにより俺は監視の回路を遮断し、とりあえず苦痛がミニマムになる道を選んだ。
仮死になってどれだけ時間がたっただろう。
チャイムが鳴って昼食だ。
動ける。
やっと動けるんだ。
インド人についていき、クリーンルームの外に出た。
おお、解放感!
「こちらでご飯を食べますか?」
真っ白な会議室で、他のシンガポール人が話してくる。
「いえ、外で食うので大丈夫です。」
えらいぞ。えらいぞ。上司。
こんな真っ白の中で黙って飯食ったら、キチガイになる。
自由束縛の象徴クリーンウエアも脱いで靴を履いて外に脱出だ。
太陽が見える。
さあ、何を食うんだろう。
....上司が来ない。
工場の玄関は社員で人がごった返していたから、俺はとりあえず靴だけ履いて玄関を出たところで待ってるのに、でてくるのはシンガポール人ばかり。
自由時間は1時間しかないのに!
飯食ったらまた地獄に戻らないといけないのに!
しばらくして上司が出てきたが、なぜか上司は怒っていた。
「靴がないんだよ。」
え?
よく見ると、お客さん用の白いスリッパを履いたまま、この赤道直下のシンガポールのアスファルトを踏みしめている。
上司の話では、似たような靴が残されていてそれは小さすぎたので入らなかったそうだ。
誰かが間違えたらしい。
背広とスリッパとアスファルト。
笑わずにはいられない。
上司は近くのフードコートに行きたいからと、タクシーを止めた。
タクシーにスリッパで乗ってもいいんだ。
海外ってのはこんなに自由にしてもいいんだ。
俺の枠が壊れたときだった。
こういう感じのフードコートで、とにかく楽しそうにランチを食うスリッパのおっさんを見て、俺は一気に海外が好きになった。
その後も、上司は同じ調子で数日間ずっとはちゃめちゃを繰り返し、シンガポールから帰国した。
そして、俺はそれ以降なるべくツアーでは海外に行かないようになった。
ツアーで行くとその国の面白さが伝わりにくいと思うようになったからだ。
日本で考えて見るとわかりやすい。
空港までバスが迎えにきて、ホテルに連れていってくれる。
誰かがホテルのチェックインをしてくれて、次の日バスで目的地に行く。
観光したら、バスに乗り....
これって日本の名所を見ただけで、日本を感じたことにはならないんじゃないか。
自由な旅をするようになって、俺は海外の楽しさが少しわかった。
俺に自由を教えてくれたあの上司から俺は海外の楽しさを(勝手に)学んだ。
今まで色々な失敗をしながら多くの旅をしてきたが、これだけは言える。
俺はどこの国の人のことも見下したことはないし、きちんとリスペクトして接してきた。
相手がホームレスや物乞いであっても、人間として対等だと思いながらものを渡してきた。
東南アジアやアフリカとかで偉そうにしている日本人旅行者をたまに見かける。
...カッコ悪いのでやめて欲しい。
さあ、あなたもツアーをやめて、世界を大冒険してみようじゃないか。
世界はめちゃめちゃ面白いから。
(いや、俺の上司が面白いのかも)